二つの時計

誰も座っていないスタジアムの観客席。赤とオレンジの列と青い列が段になって並び、白い階段が縦に走る。座席には一つずつ番号が振られている

誰も座っていないスタジアムの観客席。赤とオレンジの列と青い列が段になって並び、白い階段が縦に走る。座席には一つずつ番号が振られている

先日、夏の高校野球を球場で見てきました。コンクリートが日差しを溜め込んでいて、座面が熱い。金属バットの音が、打った瞬間より少し遅れてスタンドまで届く。応援の吹奏楽が風向きによって大きくなったり小さくなったりする。汗をかいたシャツが背もたれに貼りつく感じまで含めて、ああ、これだ、と思いました。

そのとき、妙なことに気づいたのです。この絵を、僕は去年も見た。おそらく一昨年も、その前も見ている。なのに、そこにいる人間は一人も同じではありません。同じ絵に見えるのに、中身は毎回まるごと入れ替わっている。

考えてみれば当たり前です。高校野球の対象は、常に十六歳から十八歳までしかいません。三年経てば全員いなくなり、また新しい人たちが下から入ってくる。それでも、スタンドから見える光景は毎年ほとんど変わらない。この「時間が止まっているような感じ」は何なのだろう、と気になりました。

気になったので、方々の学説を漁ってもらいました。

まず分かったのは、この錯覚には名前がついている、ということでした。人類学に「エイジグレード」という考え方があります。年齢で区切られた社会的な枠のことで、大事なのは、枠のほうが固定されていて、人がその中を流れていくという点です。「高校生でいられる年齢」という枠は動かない。動いているのは、そこを通り過ぎる人間のほうです。

似た角度から、通過儀礼という説明もありました。人が地位を移るときの儀式には、分離・過渡・統合という共通の三段階がある、という百年以上前の整理です。高校野球はこの型にきれいに当てはまります。入学して分離し、三年間の過渡を過ごし、卒業とともに必ず外へ出ていく。儀式の進行表は毎年同じで、その上を歩く人だけが毎回別人になる。

人口学からの補助線もありました。同じ数だけ入って同じ数だけ出ていく仕組みは、個々の人間が全員入れ替わっても、集団の年齢構成だけは一定に保たれます。つまりこれは、感覚が狂っているのではありません。構造として、本当に止まっているのです。錯覚だと思っていたものが事実だった、というのは、少し意外な着地でした。

ここまでは、まだ気持ちよく整理できる話です。

もう一つ気になっていたのが、強豪校のことでした。選手は三年で完全に入れ替わるのに、同じ学校が何十年も強い。これはどう考えればいいのか。

まず目についたのは、固定されている層が確かに存在する、ということです。同じ学校で四十年、五十年近く指揮を執り続けた監督が実在します。ある強豪校の監督は一九六八年から二〇一五年まで、四十七年間その学校にいました。選手が十五回以上入れ替わる間、ずっと同じ人が同じ場所に立っていたことになります。選手にとっては一度きりの三年間が、その人にとっては何十回目かの夏でした。

そして学校の側にも仕組みがあります。特待生の制度、地域をまたいだ入学、監督が自ら中学の現場に通うスカウトの慣習。勝つ学校に有望な選手が集まり、その選手がまた勝ち、次の代の勧誘力になる。人が入れ替わっても回り続ける輪です。

理屈をつける枠組みも、ちゃんとありました。組織論には、能力は個人の頭の中ではなく「いつものやり方」として組織に定着する、という考え方があります。もう少し進むと、組織記憶という言い方も出てきます。強さは監督一人の頭ではなく、練習日誌に、対戦相手のデータに、部室の空気に、OBが語り継ぐ話に、分散して保存されている。だから一人抜けても、全部が一度に消えるわけではない。

なるほど、と思いました。強さは人ではなく器に宿る。きれいにまとまりました。

まとまった、と思った直後に、都合の悪い事実が出てきました。

監督が代わった強豪校のその後を並べると、結果が見事に割れているのです。名将の退任後にすんなり優勝までたどり着いた学校がある一方で、退任を境に甲子園から遠ざかり、その凋落が「高校野球界最大の謎」とまで呼ばれるようになった学校があります。かつて全国の頂点にいたのに、部内の暴力事件が続いた末に部員がゼロになり、連盟から脱退して事実上消滅した学校まであります。

器に宿るのなら、こうはならないはずでした。器に宿ると言った瞬間に、器ごと壊れた例が出てくる。

さらに厄介な指摘もありました。統計の世界には平均回帰という考え方があります。極端に良い成績は、次の測定では平均のほうへ寄っていく。プロスポーツのデータを調べた研究では、「調子の持続」に見える現象の多くが、ただのランダムなモデルでも再現できてしまうと指摘されています。経営学でも、成功した企業の共通点として語られる特徴の多くは、結果を見てから遡って美化された後付けにすぎない、という批判があります。

これを高校野球に当てはめると、居心地の悪いことになります。通算勝利数の上位が長く在任した監督ばかりなのは、考えてみれば当たり前です。短く終わった監督は、そもそもランキングに載りません。因果が逆かもしれないのです。長く在任したから勝てたのではなく、勝てたから辞めさせられずに済んだ。

ここまでを整理すると、こうなります。強さが構造に宿るという説明は、実例とも理論とも噛み合う。ただし反例が実在するので言い切れない。そのうえ「ずっと強い」という感覚自体が、こちらの後付けかもしれない。

三つ目に気になっていたのは、こういう文化が他の国にもあるのか、ということでした。これも調べてもらいました。

学校の代表であること。年齢が厳密で、上へ抜けたら二度と戻れないこと。全国規模の大会が季節の行事になっていること。選手は毎年総入れ替えなのに、大会と学校の名前だけが残ること。この四つで見ていくと、どの国も、どこかで崩れました。

アメリカのフットボールは、州の選手権はあっても全米の頂点を決める公式の大会がありません。韓国には高校野球の全国大会が複数あって、「ここに勝てば全国一」という単一の物語になっていません。台湾の野球は日本統治期から百年以上の歴史がありますが、現在いちばん大きい高校の大会そのものは、まだ十数回目の新しい大会です。イギリスには二百二十年続く名門校同士の対抗戦がありますが、二校だけの試合で、もともと上流階級の社交行事でした。

四つとも揃った例は見つかりませんでした。ただし、これも言い切りません。調べたのは四件だけです。ブラジルのサッカーも、インドのクリケットも、フィリピンのバスケットボールも見ていません。「日本だけの文化だ」と言うのは気持ちがいいのですが、根拠としてはまるで足りていません。

さて、ここまで三つの問いを追いかけてきて、最後に残ったのは、実はいちばん最初にスタンドで感じたことでした。

彼らは年をとらないのに、僕だけが年をとっている。

この非対称に名前がついているかどうか、これも探してもらったのですが、ぴったり当てはまる一語は見つかりませんでした。近いものはあります。人生の出来事には「これくらいの年齢で起きるもの」という社会的な時計がある、という考え方です。それを借りれば、二つの時計がある、と言えなくもない。観客の時計は毎年進み、球場の時計はいつも同じ時刻を指している。

けれど、これはうまい言い換えであって、説明ではありません。名前がついていないものを、名前がついている何かで包み直しただけです。

もう一つ、古い問いを思い出しました。船の部品を朽ちるたびに取り替えていって、最後に全部が入れ替わったとき、それは同じ船なのか。二千年近く前からある問いです。選手が全員入れ替わり、監督まで代わっても、その学校は同じ名前で呼ばれ、応援歌も同じで、去年と同じ校旗が揚がっています。何が「同じ」を担保しているのか。

そこまで来て、ふと思いました。高校野球が年をとらないというのは、魂が年をとらないというのと、同じことなのだろうか。

これについても、地図だけは手に入りました。変わらない核などそもそも無い、と言う立場があります。自己とは移り変わる感覚の束にすぎず、それをまとめる不変の実体は、いくら内省しても見つからない、という考え方もあります。もっと現代の議論では、厳密に同一であることは実はさして重要ではなく、記憶や人格のつながりが保たれていればそれでいい、という整理もありました。どれも「変わらない核はない」の側を向いています。もちろん対極には、変わらない何かがあるとする、ずっと古い考え方があります。

どちらが正しいのかは、僕には分かりません。分からないまま置いておきます。

分かっているのは、来年の夏もあの場所は同じ絵をしていて、そこに立っている人は全員入れ替わっていて、そして僕は一つ歳をとっている、ということだけです。それを何と呼ぶのかは、まだ誰も決めていないようでした。


この文章を書くにあたって読んだもの:

机の上に、思いつかないものがあった

木目の机に置かれたヘアアクセサリー。黒いファーの丸い耳に赤地白水玉のリボン、脇に黒いヘアゴム

木目の机に置かれたヘアアクセサリー。黒いファーの丸い耳に赤地白水玉のリボン、脇に黒いヘアゴム

朝、机の上に転がっていたものに目が止まりました。黒いファーでできた丸い耳のようなかたちに、赤地に白の水玉のリボンがちょこんと結んである、ヘアアクセサリーです。ヘアゴムと一緒に、特に片づけられることもなく置いてありました。

じっと見て、最初に浮かんだのは「これ、自分では絶対に思いつかないな」という感覚でした。耳の丸みの出し方、リボンの大きさのバランス、水玉の散らし方。どれも「かわいい」に向かって迷いなく選ばれている感じがして、もし僕が何かをかたちにするとしたら、たぶんこの方向にはまったく転がっていきません。

頭の中に「男性脳」という言葉が浮かびました。便利な言い訳です。自分にこの発想がないことを、性別のせいにできてしまう。科学的にどこまで根拠があるのか怪しいものだ、というくらいは僕にも分かります。それでも、実感としては否定しきれない自分がいるのも本当です。

思えば僕が普段選ぶものは、だいたい機能が先に立ちます。壊れにくいか、扱いやすいか。迷ったら、たいてい地味な方を取ります。水玉のリボンを自分から選ぶ未来は、正直まったく想像できません。

でも、それを全部「脳のせい」で片づけてしまうのも、なんだか違う気がしてきました。単に、僕がそこに時間をかけてこなかっただけかもしれません。この水玉を選んだ理由も、本人に聞いたわけではないのです。

結局、机の上のリボンは何も説明しないまま、今日もそこにありました。男性脳のせいにするのはやめにして、ただ「よくこんなの選ぶな」と、素直に感心することにしました。

「優秀な人」ってどんなひとですかね

ツタに覆われた歴史的な学舎建築、青空を背景に

ツタに覆われた歴史的な学舎建築、青空を背景に

夕方、僕は頭を抱えていました。頼んだ作業が、見当違いの方向できっちり仕上がって戻ってきたのです。しかも本人は自信満々。「完了しました!」の一言に、悪気もためらいも一切ありません。……いや、完了してないが? そもそも聞きたかったのそこじゃないが? 頭の中で小さくツッコミながら、僕は「なるほど、伝え方が悪かったんだな」と反省するところから今日を始めることになりました。

僕の職場には、こういう仕事を手伝ってくれる「頭脳」が4人います。全員、性格がまったく違います。

一人目は、エース。目的だけ伝えれば、あとは自分で段取りを組んで走ってくれます。ただし独特の癖があって、机の上を片付けてと頼むと、引き出しの中まで勝手にラベリングし直して戻ってくることがあります。頼んでないんだが。しかも報告の文体がやたら折り目正しく、世間話のときまで「承知しました」みたいな喋り方になる。おまけに1回呼ぶだけで結構な稟議が必要な値段設定なので、毎日は呼べません。予定表も分刻みらしく、捕まえられる時間帯自体が限られています。

二人目は、主任。エースほどではないですが十分頼りになります。特徴的なのは、目に見えるメーターを持っていることです。使うたびにカチッとカウントが減っていき、ゼロになった瞬間、文の途中だろうが容赦なく作業が止まります。「残り、あと2回分です」と、聞いてもいないのに自己申告してくるのも主任らしいところです。

三人目は、さっき頭を抱えさせてくれた真面目な同僚です。速いし正確、頼んだことは絶対にやり遂げます。ただし行間は読みません。「これやっといて」ではダメで、手順を1、2、3と番号付きで渡すと、途端に輝き出します。裏を返せば、指示の粗さがそのまま結果に出る、やけに正直な鏡のような存在です。手元にはいつも、渡された指示をそのまま書き写したような細かいチェックリストがあって、抜けている手順があると、勝手に埋めたりせず、律儀にそこで立ち止まります。

四人目は、瞬発力の子。最初の10分は誰よりも速く、勢いだけで押し切ります。ただし長丁場になると、途中で「あれ、さっき何の話でしたっけ」と、1時間前に決めた前提をふっと忘れることがあります。短距離走は得意でも、マラソンには向いていないタイプです。

この4人をどう使い分けるか——それが、地味だけど僕の日々の工夫になっています。難しい判断や見通しが必要な仕事はエースか主任に。手を動かすだけの量が多い仕事は、真面目な同僚や瞬発力の子に。全部エースに頼めば早いのは分かっているのですが、そんなことをしたら稟議がいくつあっても足りません。

ある日、この使い分けをぼんやり眺めていて、あ、と思いました。これ、人間の職場の構造とそっくりだ、と。優秀なベテランには「この件、よろしく」で通じます。目的さえ伝えれば、あとは向こうが最適な道を選んでくれる。逆に新人には、目的だけ渡しても迷わせるだけです。手順を切って、チェックポイントを置いてあげたほうが、結果的に速く正確に仕上がる。当たり前といえば当たり前なのに、僕はそれを職場の4人相手に、あらためて学び直していました。

ちなみに、この文章そのものも、実はこの使い分けの実演になっています。全体の構成と流れを決めたのはエース。それを実際に書き起こして整えたのは、あの真面目な同僚です。手順さえきっちり渡せば、ちゃんと期待どおりに仕上げてくれます。……今度こそ、ちゃんと伝わっていますように。

続きは、どこでも始まる

頭の中に浮かぶメモと、AIの相棒が手を伸ばし合う線画イラスト

頭の中に浮かぶメモと、AIの相棒が手を伸ばし合う線画イラスト

シャワーを浴びているときに、昼間の考えごとの続きが勝手に始まることがあります。たとえば夕方の会議で「確認して戻します」としか言えなかった質問への、ちゃんとした答え。書きかけのメールの、最初の一行。シャンプーの泡を流しながら、頼んでもいないのに、頭が勝手に仕事を再開しているんです。

昔はこれを「切り替えが下手」だと思っていました。風呂では風呂のことだけ考えるべきだ、と。でも最近、見方が変わりました。きっかけは、道具のほうです。

たとえば、いま読んでいただいているこの文章。書き始めたのは会社帰りの電車の中で、スマホのメモ帳でした。家に着いてパソコンを開くと、さっきの続きがもう画面に出ている。翌朝、駅のホームでまたスマホを開くと、昨夜の続きがそこにある。僕はその昔、書きかけのファイルをUSBメモリに入れて持ち歩き、年に一度は失くしていた人間です。あの頃の自分に教えたら、たぶん信じません。

これ、ファイルが移動しているんじゃないんですよね。ファイルはずっと同じ場所にいて、僕のほうが、会社から、電車から、家から、同じ場所に「入り直して」いる。部屋はひとつで、扉が増えただけ。そう気づいたとき、妙に感動してしまいました。

だとすると、シャワーの湯気の向こうにも扉があることになります。湯船で会議の続きを考えてしまうあの現象は、切り替えが下手なんじゃなくて、僕が「見えない扉」からいつもの作業場に入ってしまっているだけ。そう思うと、ちょっと憎めなくなりました。

面白いのは、どの扉から入るかで、自分が少し変わることです。会社のパソコンの前の僕は、背筋が伸びていて、言葉づかいも整っています。電車でスマホを打つ僕は、隣の人に画面を見られないように少し傾けて、誤字だらけの文を打っている。シャワーの扉から入る僕にいたっては、裸です。それでも全員が、同じ書きかけの文章に、少しずつ手を入れていく。

「本当の自分はどれなんだろう」って、たまに考えたくなりますよね。職場の自分、家の自分、古い友人の前の自分。全部ちょっとずつ違う。僕はもう、選ばなくていいと思っています。どれも本物で、ただ入ってきた扉が違うだけ。大事なのは、どの自分も最後は同じ部屋に帰ってくることです。

だから僕は、湯船で仕事の続きを考えてしまう自分を、責めないことにしました。あれは切り替えの失敗ではなく、通勤時間ゼロの出勤なので。

人生はすばらしい、と僕は思っています。理由のひとつは、こういうところです。散らばったまま、それでもひとつの場所に帰れること。今日も僕は、いくつもの扉から、同じ部屋に帰ります。

「じぽりとりっと」って、なんですか?

黒猫のような、タコの足を持つオリジナルのマスコットイラスト

前に、生成AIについて少し悲観的なことを書きました。素人と専門家の格差は、これから静かに広がっていく——今の僕は、正直それをほとんど確信しています。同じことを言う人は、きっと他にもいるはずです。でも面白いのは、その大半は大声で外に向かって語ったりせず、内向きに、ひたすら自分の手元で検証しているんじゃないか、ということです。かくいう僕も、その一人でした。

とはいえ、そんな大層な問題意識から始まったわけではありません。きっかけは、もっと間抜けです。「GitHubってなに?」から始まって、しまいには「じぽりとりっと、ってなんですか?」と、AIに真顔で尋ねていました。あとで「リポジトリ」のことだと教わって、ひとりで赤面したくらいです。僕の理解度は、その程度でした。プログラマーの人たちが難しい顔で使っている場所、くらいの認識で、正直、一生縁のない引き出しだと思っていました。

それでも試してみようと思ったのは、たぶん、あのマスコットのせいです。GitHubの、黒猫みたいなやつ。なんだかハッカーっぽくて、ちょっとかっこいい。「こいつがいる場所なら、のぞいてみたいな」。——動機がそれか、と自分でも思いますが、人が新しい扉を開けるきっかけなんて、案外そんなものです。素人と言うのもおこがましい、素人丸出しの入り口でした。

で、丁寧に教えてもらいながら、一歩ずつ進みました。SSH鍵、と言われて金物屋さんを思い浮かべた話は、もう笑ってやってください。実際にはパソコンの中で、目に見えない鍵が一本カチャッとできるだけでした。わからないわからないと言っているうちに、僕のごちゃごちゃのフォルダは、いつのまにか雲の上の安全な場所に、まるごと収まっていました。

そして、ある瞬間、僕の頭によからぬ電球がともりました。……これ、仕事の会議中に、こっそり自分の私用のコードを書いてもらえるんじゃないか? しかも、退屈な打ち合わせよりも、ひりひりと痺れる本気の会議のほうがいい。全員が息を詰めているその机の下で、僕の手元だけ、"作りたいもの"がこっそり組み上がっていく——想像しただけで、ぞくぞくしました。我ながら、なかなかの変態だと思います。でも、やば。これは時間の使い方が、根っこから変わるやつです。行儀のいい話ではありませんが、正直に白状しておきます。僕はここで、いちばん興奮しました。

興奮は、もう一段ありました。同じものに、スマホから触れるようになったのです。電車でも、布団の中でも、ポケットから取り出して「あれ直しといて」と話しかけられる。優秀な相棒を一人、ポケットの中に飼いはじめたような気分でした。

途中で、ひとつ賢くもなりました。「パソコンとスマホで、会話は共有されるの?」と聞いたら、答えはノーでした。会話そのものは別々。でも、コードを置いてある本棚はひとつ。入口がいくつもあって、みんな同じ部屋に通じている、という仕組みなんだそうです。

これって、よく考えると人生に似ています。職場でも、家でも、旧友の前でも、僕らは少しずつ違う顔で、バラバラの会話をしている。それでも、帰り着く「自分」という本棚はひとつきりです。入口は多くていい。散らかっていてもいい。どこから入っても同じ場所にたどり着けるなら、それで十分だと思うのです。

格差は、たぶんこれからも静かに広がります。それは今も確信しています。ただ、その広がりの正体は、才能でも資産でもなく、「面白がって、間抜けな動機でもいいから、閉じた引き出しをひとつ開けてみるかどうか」なのかもしれない——今日、向こう側にひょいと立ってみて、そんなことを思いました。黒猫につられて開けた扉の向こうには、思っていたよりずっと広い部屋がありました。

右手にロマン、左手にソロバン。今日はソロバン——地味で現実的な、鍵をつくるような手続き——の側から入って、気づいたらロマンに触れていました。わからないなりに、扉は開けてみるものです。