自分は標準以上だと考える癖

ゲームで、どうしても抜けられない場所がありました。何度やっても同じところで止まる。それで、たぶん本来の解き方ではないやり方で、無理やり先へ進んだことがあります。

どのゲームの、どの場面だったかは、正直もう思い出せません。覚えているのは、抜けた瞬間の感触の方です。誰にも教わっていない。攻略も見ていない。自分の頭の中だけで組み立てて、それが通った。あのとき僕は、少し賢くなった気がしていました。

最近は、自分で遊ぶより、誰かが遊んでいるのを見ていることの方が多くなりました。配信でも、切り抜きでも。手が空いていないときに、人がうまいこと切り抜けるのを眺めているだけで、そこそこ満足してしまう。これはこれで悪くない時間です。

それで、見ていたわけです。ある人が、あの場所を、あのやり方で抜けました。

いや、僕のやつだが、と思いました。

もちろん僕のものではありません。その人が僕を見ていたわけでもない。ただ、同じところで詰まって、同じことを思いついただけです。しかもコメント欄を見ると、それも定番の抜け方らしく、知っている人はとっくに知っているようでした。何人も、何十人も、同じ「自分だけの発見」をしていたわけです。

しばらく、いい気分ではありませんでした。

気になったので、この手の思い込みに名前がついていないか調べてもらいました。ありました。自分の得意なことや良い習慣について、「他の人はあんまりやっていないはずだ」と根拠なく思い込む癖のことを、誤った独自性効果と呼ぶそうです。ついでに、その逆もあるそうです。後ろめたいことについては、人は「みんなやってる」と思いたがるらしい。へえ、と思いました。都合がいいですね。自分の良いところは珍しくて、悪いところはありふれている。そんなわけがない。

もう一つ、腑に落ちる話がありました。同じ人でも、何と比べているかで結論がひっくり返る、という研究です。身の回りの何人かと比べているときは「自分は特別だ」と感じ、社会全体と比べたとたんに「みんな自分と同じようなものだ」と感じる。つまり、比べる相手の広さが、そのまま自己認識を決めている。

僕の場合、あの瞬間まで比較対象がいなかったのだと思います。一人で遊んでいたので、母集団が僕しかいなかった。配信を開いた瞬間に、それが何万人かに広がった。何も変わっていないのに、自分の位置だけが動いて見えた。

ここまでで、まあ、そういうものかと納得しかけたのですが、調べているうちに、もっと具合の悪い話が出てきました。

作っている側の話です。

広い世界を歩き回る系のゲームには、物理や化学のルールを世界じゅうで統一しておく、という作り方があるそうです。火は燃えるものに燃え移る、金属は電気を通す、重いものは落ちる。それをどこでも同じように効かせておけば、開発者が思いつかなかった組み合わせでも、勝手に成立してしまう。あらかじめ正解を一つ用意するのではなく、正解が生まれる土壌の方を作っておく、という考え方です。

そういう作り方をしている開発者の一人が、講演でこう言っていました。自分は天才だと思える体験を楽しんでほしい。

読んだとき、椅子の上で少しのけぞりました。

あの感触は、狙われていたわけです。「自分で見つけた」という気持ちよさは、副産物でも事故でもなく、届けようとして届けられたものだった。しかも別の作品では、武器の組み合わせを開発時点で十二万通り確認していた、という話まで出てきます。十二万通り。僕の思いついた一通りが、その中に入っていない方がどうかしています。

これで話は終わりだと思いました。僕は天才ではなく、設計図の上を歩かされていただけ。落ちとしては、まあ、きれいです。

ところが、そう単純でもありませんでした。

同じ開発者が、別の講演では、発売後のプレイヤーを見てこう言っているのです。開発陣が思いもしなかった組み合わせで遊んでいる様子をたくさん見ることができて、とても嬉しい、と。

十二万通り確認して、なお思いもしなかったことが出てくる。

ゲームデザインを研究している人の論文にも、これに近い整理がありました。誰も予期しなかったことが起きる、という現象そのものは、直接設計することができない。設計できるのは、それが起きるための条件だけである。つまり土壌は作れるが、そこから何が生えてくるかまでは、種を蒔いた人にも分からない。

似た話は昔からあるようで、あるゲームでは、爆風で自分を吹き飛ばして高く跳ぶ移動法をプレイヤーが見つけてしまい、開発チームは実演を見せられて初めてその存在を知ったのだそうです。それが後の作品では、正式な仕様として残された。想定外だったものが、想定内に引っ越していく。

それで、僕の話に戻ります。

僕はやはり天才ではありませんでした。それは配信を見た時点で確定しています。ただ、「標準偏差の中にいた」という方も、実は証明されていません。誰も、その分布の全体を見ていないからです。 僕も見ていないし、同じ抜け方をしていた配信の人も見ていない。十二万通りを数えた人たちですら、自分たちが数え漏らしたものに後から驚いている。

分布の中にいたのか、外にいたのか。それを判定できる人が、たぶんどこにもいません。

そう思ったら、少し楽になりました。あの日の僕が味わったものは、独自性ではなかったのかもしれませんが、少なくとも借り物ではありませんでした。誰かの答えを写したわけではなく、自分の頭で通した。それが何人目だったかは、僕の側の体験を何も変えません。

ちなみに、あの配信の人も、抜けた瞬間に小さくガッツポーズをしていました。何十人目かの発見だったはずなのですが、そんなことは顔に出ていませんでした。

たぶん、それでいいのだと思います。


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