前回のAIの話の続きです。

脳のしわのような溝が走るブレインコーラルの水中クローズアップ

この文章は、前回の続きです。前回は、AIの中を覗いた研究の報告を読んだ話でした。中に、ずいぶん狭い場所があるのだそうです。そこに乗る考えは一度に数十ほどで、乗っているものだけが「今これを考えています」と言えたり、次の考えに使われたりする。

その報告を、僕はその日のうちに二回読みました。二回目を読んだのは、一行だけ引っかかったところがあったからです。その狭い場所は、誰かが設計して置いたものではない、と書いてありました。作った本人たちが仕込んだわけではなく、訓練の途中で勝手にそうなったのだ、と。

引っかかりの正体は、そのすぐあとに出てきました。その形が、人間の意識を説明するために考えられた理論と、よく似ているのだそうです。

グローバル・ワークスペース理論といって、一九八八年からある考え方です。頭の中の大部分は裏で勝手に動いていて、そのうちごく一部だけが全体に配られる。配られた分だけが、報告できて、意図的に扱えて、次の判断に使える。

もともと劇場にたとえられてきた理論だそうです。スポットライトの当たった役者だけが、客席の全員から見える。舞台裏では大勢が動いているけれど、そちらは見えない。この比喩は理論の側のもので、僕が思いついたわけではありません。

引っかかっているのは、順番の方です。ふつうは、脳を手本にして機械を作ります。今回は、その手順を踏んでいません。手本にしなかったのに、似た形に落ち着いてしまった。

研究チーム自身が、この似ている部分と違う部分を神経科学の側に返したい、と書いています。人の脳を調べるより、こちらの方がずっと調べやすいからです。機械の中を調べて、人間の頭についての新しい仮説が出てくる。そんな向きがあり得るとは、僕は考えたこともありませんでした。この先どうなるのかは、正直もう見当がつきません。

そのうえで、この人たちは線を引いています。報告できることと、体験があることは別だ、と。今回わかったのは前者の方だけで、あのAIに体験があると示したわけではない、とはっきり書いてあります。

できないことも並べてあります。この方法で拾えるのは単語ひとつ分の概念だけであること。本当の中心を、近い形でなぞっているにすぎないこと。頼んでも、狙いどおりに入れ替わらないことがあること。ここまで自分で書いてから出すのか、と思いました。

読み終えてから、ずっと考えているのは、自分が何に驚いたのかということです。賢くなったことではありません。意識があるのかどうか、でもない。誰も似せようとしていないのに、人間の頭とよく似た形に落ち着いていた——驚いたのは、そちらの方でした。

人の頭がその形をしているのには、理由があるはずです。今回わかったのは、その理由が、人の頭の外側でも通用したということだと思っています。手本にしなくてもそこへ行き着くくらい、よくできた形だったわけです。

ちなみに僕は、自分が三十秒前に何を考えていたかも、聞かれるとうまく答えられません。それでも、自分の頭が急に、少しだけ良いものに見えてきました。


この文章を書くにあたって読んだもの:

作った人たちも、あとから見つけた。AIの話。

神経のつながりを思わせる3Dレンダリングの抽象的な脳のイメージ

朝、コーヒーを淹れる前にリンクを開いてしまったのが間違いでした。あとで読もうと思っていたのに、流し台の横に立ったまま、最後まで読んでしまいました。

AIを作っている会社の研究チームが、自分たちのAIの中を覗いた報告でした。中に、ずいぶん狭い場所が見つかったそうです。そこに乗っている考えは、一度に数十ほど。中で起きていること全体の、一割にも届きません。

不思議なのは、その狭い場所に乗ったものだけが、特別に扱われていることです。

まず、そこに乗っているものは「今これを考えています」と本人が言えます。乗っていないものについては、言えない。

次に、頼めば入れ替えられます。絵についての文章を書き写させながら、柑橘類のことを考えていてください、と頼んだそうです。書き写している間、その場所には「オレンジ」と「果物」が入っていました。

そして、そこに乗っているものが、次の考えに使われます。蜘蛛のところを蟻に差し替えてやると、脚は何本ですかという問いへの答えが、八本から六本に変わる。

逆に、その場所を空にしてしまう実験もやっています。空にしても、喋りは流暢なままでした。文章が明るい調子か暗い調子かを当てることもできるし、知っている事実も普通に出てきます。落ちたのは、順番に段取りを踏んで考える仕事だけ。そちらはほぼゼロまで落ちたそうです。

僕はここで読むのを一度やめて、上から読み直しました。

引っかかったのは、そのあとの一行です。この形は誰も設計していない、と書いてありました。作った人たちが仕込んだのではなく、訓練しているうちに勝手にそうなった。計算を整理するのに都合がよかったからだろう、と。

つまりこの人たちは、自分たちで作ったものの中から、自分たちが入れた覚えのない構造を見つけて帰ってきたわけです。発明の報告ではなくて、発見の報告でした。

道具のつもりで作ったものを、あとから顕微鏡で覗く。そういう仕事が現に成立していることの方に、僕はしばらく手が止まっていました。


この文章を書くにあたって読んだもの:

こういう形態のスモールビジネスか、と思いました

番号の振られた収納ビンが整然と並ぶ倉庫の棚

たまたまネット通販サイトを覗いていて、目に留まった店がありました。ソーラーライト、ワイヤレスチャイム、SDカード。かと思えば猫よけグッズや着圧ソックス、霧吹きまで並んでいて、正直なんの店なのか一瞬分かりませんでした。

よく見ると、店の名前自体が商品名とキーワードの羅列でした。ブランドを名乗るというより、検索で拾われるための並びです。値段はどれも似たような帯に集まっていて、全商品に大きな割引クーポンがついています。レビューの数も、ちょっと異様なくらい厚い。

ああ、これが噂に聞く「スモールビジネス」というやつか、と妙に納得しました。商品そのものに強いこだわりがあるようには見えません。強いのは、見せ方と、検索に引っかかるための細かい作り込みの方です。誰でも始められそうに見えて、ここまで仕組みを整えるのは、たぶん相当な手間がかかっています。

同時に、少し引っかかることもありました。この店に、ファンはついていないだろうということです。ついているのはたぶん、店の名前ではなく、クーポンやポイントの方です。積み上がっているのは、この人が磨いてきた技術というより、モール側の実績なのかもしれません。

「割り切ってるなぁ」という言葉が、一番しっくりきました。ブランドを育てる遠回りより、今すぐ売れる近道を選んだ結果が、たぶんこの店なんだろうと思います。

最初は、商品に愛のない店だと思っていました。でもたぶん、違います。愛の向き先が商品ではなく、売れる仕組みの方に寄っているだけです。手は、まったく抜かれていません。

積み上がるものがモール側の実績だとしても、その仕組みを回している腕前だけは、この人のものとして残ります。少なくとも僕には、それが虚しいものには見えませんでした。

自分は標準以上だと考える癖

薄暗い机の上に置かれた8ビット時代のゲームパッドと、積み重ねられたオレンジ色のカートリッジ

ゲームで、どうしても抜けられない場所がありました。何度やっても同じところで止まる。それで、たぶん本来の解き方ではないやり方で、無理やり先へ進んだことがあります。

どのゲームの、どの場面だったかは、正直もう思い出せません。覚えているのは、抜けた瞬間の感触の方です。誰にも教わっていない。攻略も見ていない。自分の頭の中だけで組み立てて、それが通った。あのとき僕は、少し賢くなった気がしていました。

最近は、自分で遊ぶより、誰かが遊んでいるのを見ていることの方が多くなりました。配信でも、切り抜きでも。手が空いていないときに、人がうまいこと切り抜けるのを眺めているだけで、そこそこ満足してしまう。これはこれで悪くない時間です。

それで、見ていたわけです。ある人が、あの場所を、あのやり方で抜けました。

いや、僕のやつだが、と思いました。

もちろん僕のものではありません。その人が僕を見ていたわけでもない。ただ、同じところで詰まって、同じことを思いついただけです。しかもコメント欄を見ると、それも定番の抜け方らしく、知っている人はとっくに知っているようでした。何人も、何十人も、同じ「自分だけの発見」をしていたわけです。

しばらく、いい気分ではありませんでした。

気になったので、この手の思い込みに名前がついていないか調べてもらいました。ありました。自分の得意なことや良い習慣について、「他の人はあんまりやっていないはずだ」と根拠なく思い込む癖のことを、誤った独自性効果と呼ぶそうです。ついでに、その逆もあるそうです。後ろめたいことについては、人は「みんなやってる」と思いたがるらしい。へえ、と思いました。都合がいいですね。自分の良いところは珍しくて、悪いところはありふれている。そんなわけがない。

もう一つ、腑に落ちる話がありました。同じ人でも、何と比べているかで結論がひっくり返る、という研究です。身の回りの何人かと比べているときは「自分は特別だ」と感じ、社会全体と比べたとたんに「みんな自分と同じようなものだ」と感じる。つまり、比べる相手の広さが、そのまま自己認識を決めている。

僕の場合、あの瞬間まで比較対象がいなかったのだと思います。一人で遊んでいたので、母集団が僕しかいなかった。配信を開いた瞬間に、それが何万人かに広がった。何も変わっていないのに、自分の位置だけが動いて見えた。

ここまでで、まあ、そういうものかと納得しかけたのですが、調べているうちに、もっと具合の悪い話が出てきました。

作っている側の話です。

広い世界を歩き回る系のゲームには、物理や化学のルールを世界じゅうで統一しておく、という作り方があるそうです。火は燃えるものに燃え移る、金属は電気を通す、重いものは落ちる。それをどこでも同じように効かせておけば、開発者が思いつかなかった組み合わせでも、勝手に成立してしまう。あらかじめ正解を一つ用意するのではなく、正解が生まれる土壌の方を作っておく、という考え方です。

そういう作り方をしている開発者の一人が、講演でこう言っていました。自分は天才だと思える体験を楽しんでほしい。

読んだとき、椅子の上で少しのけぞりました。

あの感触は、狙われていたわけです。「自分で見つけた」という気持ちよさは、副産物でも事故でもなく、届けようとして届けられたものだった。しかも別の作品では、武器の組み合わせを開発時点で十二万通り確認していた、という話まで出てきます。十二万通り。僕の思いついた一通りが、その中に入っていない方がどうかしています。

これで話は終わりだと思いました。僕は天才ではなく、設計図の上を歩かされていただけ。落ちとしては、まあ、きれいです。

ところが、そう単純でもありませんでした。

同じ開発者が、別の講演では、発売後のプレイヤーを見てこう言っているのです。開発陣が思いもしなかった組み合わせで遊んでいる様子をたくさん見ることができて、とても嬉しい、と。

十二万通り確認して、なお思いもしなかったことが出てくる。

ゲームデザインを研究している人の論文にも、これに近い整理がありました。誰も予期しなかったことが起きる、という現象そのものは、直接設計することができない。設計できるのは、それが起きるための条件だけである。つまり土壌は作れるが、そこから何が生えてくるかまでは、種を蒔いた人にも分からない。

似た話は昔からあるようで、あるゲームでは、爆風で自分を吹き飛ばして高く跳ぶ移動法をプレイヤーが見つけてしまい、開発チームは実演を見せられて初めてその存在を知ったのだそうです。それが後の作品では、正式な仕様として残された。想定外だったものが、想定内に引っ越していく。

それで、僕の話に戻ります。

僕はやはり天才ではありませんでした。それは配信を見た時点で確定しています。ただ、「標準偏差の中にいた」という方も、実は証明されていません。誰も、その分布の全体を見ていないからです。 僕も見ていないし、同じ抜け方をしていた配信の人も見ていない。十二万通りを数えた人たちですら、自分たちが数え漏らしたものに後から驚いている。

分布の中にいたのか、外にいたのか。それを判定できる人が、たぶんどこにもいません。

そう思ったら、少し楽になりました。あの日の僕が味わったものは、独自性ではなかったのかもしれませんが、少なくとも借り物ではありませんでした。誰かの答えを写したわけではなく、自分の頭で通した。それが何人目だったかは、僕の側の体験を何も変えません。

ちなみに、あの配信の人も、抜けた瞬間に小さくガッツポーズをしていました。何十人目かの発見だったはずなのですが、そんなことは顔に出ていませんでした。

たぶん、それでいいのだと思います。


この文章を書くにあたって読んだもの:

二つの時計

誰も座っていないスタジアムの観客席。赤とオレンジの列と青い列が段になって並び、白い階段が縦に走る。座席には一つずつ番号が振られている

誰も座っていないスタジアムの観客席。赤とオレンジの列と青い列が段になって並び、白い階段が縦に走る。座席には一つずつ番号が振られている

先日、夏の高校野球を球場で見てきました。コンクリートが日差しを溜め込んでいて、座面が熱い。金属バットの音が、打った瞬間より少し遅れてスタンドまで届く。応援の吹奏楽が風向きによって大きくなったり小さくなったりする。汗をかいたシャツが背もたれに貼りつく感じまで含めて、ああ、これだ、と思いました。

そのとき、妙なことに気づいたのです。この絵を、僕は去年も見た。おそらく一昨年も、その前も見ている。なのに、そこにいる人間は一人も同じではありません。同じ絵に見えるのに、中身は毎回まるごと入れ替わっている。

考えてみれば当たり前です。高校野球の対象は、常に十六歳から十八歳までしかいません。三年経てば全員いなくなり、また新しい人たちが下から入ってくる。それでも、スタンドから見える光景は毎年ほとんど変わらない。この「時間が止まっているような感じ」は何なのだろう、と気になりました。

気になったので、方々の学説を漁ってもらいました。

まず分かったのは、この錯覚には名前がついている、ということでした。人類学に「エイジグレード」という考え方があります。年齢で区切られた社会的な枠のことで、大事なのは、枠のほうが固定されていて、人がその中を流れていくという点です。「高校生でいられる年齢」という枠は動かない。動いているのは、そこを通り過ぎる人間のほうです。

似た角度から、通過儀礼という説明もありました。人が地位を移るときの儀式には、分離・過渡・統合という共通の三段階がある、という百年以上前の整理です。高校野球はこの型にきれいに当てはまります。入学して分離し、三年間の過渡を過ごし、卒業とともに必ず外へ出ていく。儀式の進行表は毎年同じで、その上を歩く人だけが毎回別人になる。

人口学からの補助線もありました。同じ数だけ入って同じ数だけ出ていく仕組みは、個々の人間が全員入れ替わっても、集団の年齢構成だけは一定に保たれます。つまりこれは、感覚が狂っているのではありません。構造として、本当に止まっているのです。錯覚だと思っていたものが事実だった、というのは、少し意外な着地でした。

ここまでは、まだ気持ちよく整理できる話です。

もう一つ気になっていたのが、強豪校のことでした。選手は三年で完全に入れ替わるのに、同じ学校が何十年も強い。これはどう考えればいいのか。

まず目についたのは、固定されている層が確かに存在する、ということです。同じ学校で四十年、五十年近く指揮を執り続けた監督が実在します。ある強豪校の監督は一九六八年から二〇一五年まで、四十七年間その学校にいました。選手が十五回以上入れ替わる間、ずっと同じ人が同じ場所に立っていたことになります。選手にとっては一度きりの三年間が、その人にとっては何十回目かの夏でした。

そして学校の側にも仕組みがあります。特待生の制度、地域をまたいだ入学、監督が自ら中学の現場に通うスカウトの慣習。勝つ学校に有望な選手が集まり、その選手がまた勝ち、次の代の勧誘力になる。人が入れ替わっても回り続ける輪です。

理屈をつける枠組みも、ちゃんとありました。組織論には、能力は個人の頭の中ではなく「いつものやり方」として組織に定着する、という考え方があります。もう少し進むと、組織記憶という言い方も出てきます。強さは監督一人の頭ではなく、練習日誌に、対戦相手のデータに、部室の空気に、OBが語り継ぐ話に、分散して保存されている。だから一人抜けても、全部が一度に消えるわけではない。

なるほど、と思いました。強さは人ではなく器に宿る。きれいにまとまりました。

まとまった、と思った直後に、都合の悪い事実が出てきました。

監督が代わった強豪校のその後を並べると、結果が見事に割れているのです。名将の退任後にすんなり優勝までたどり着いた学校がある一方で、退任を境に甲子園から遠ざかり、その凋落が「高校野球界最大の謎」とまで呼ばれるようになった学校があります。かつて全国の頂点にいたのに、部内の暴力事件が続いた末に部員がゼロになり、連盟から脱退して事実上消滅した学校まであります。

器に宿るのなら、こうはならないはずでした。器に宿ると言った瞬間に、器ごと壊れた例が出てくる。

さらに厄介な指摘もありました。統計の世界には平均回帰という考え方があります。極端に良い成績は、次の測定では平均のほうへ寄っていく。プロスポーツのデータを調べた研究では、「調子の持続」に見える現象の多くが、ただのランダムなモデルでも再現できてしまうと指摘されています。経営学でも、成功した企業の共通点として語られる特徴の多くは、結果を見てから遡って美化された後付けにすぎない、という批判があります。

これを高校野球に当てはめると、居心地の悪いことになります。通算勝利数の上位が長く在任した監督ばかりなのは、考えてみれば当たり前です。短く終わった監督は、そもそもランキングに載りません。因果が逆かもしれないのです。長く在任したから勝てたのではなく、勝てたから辞めさせられずに済んだ。

ここまでを整理すると、こうなります。強さが構造に宿るという説明は、実例とも理論とも噛み合う。ただし反例が実在するので言い切れない。そのうえ「ずっと強い」という感覚自体が、こちらの後付けかもしれない。

三つ目に気になっていたのは、こういう文化が他の国にもあるのか、ということでした。これも調べてもらいました。

学校の代表であること。年齢が厳密で、上へ抜けたら二度と戻れないこと。全国規模の大会が季節の行事になっていること。選手は毎年総入れ替えなのに、大会と学校の名前だけが残ること。この四つで見ていくと、どの国も、どこかで崩れました。

アメリカのフットボールは、州の選手権はあっても全米の頂点を決める公式の大会がありません。韓国には高校野球の全国大会が複数あって、「ここに勝てば全国一」という単一の物語になっていません。台湾の野球は日本統治期から百年以上の歴史がありますが、現在いちばん大きい高校の大会そのものは、まだ十数回目の新しい大会です。イギリスには二百二十年続く名門校同士の対抗戦がありますが、二校だけの試合で、もともと上流階級の社交行事でした。

四つとも揃った例は見つかりませんでした。ただし、これも言い切りません。調べたのは四件だけです。ブラジルのサッカーも、インドのクリケットも、フィリピンのバスケットボールも見ていません。「日本だけの文化だ」と言うのは気持ちがいいのですが、根拠としてはまるで足りていません。

さて、ここまで三つの問いを追いかけてきて、最後に残ったのは、実はいちばん最初にスタンドで感じたことでした。

彼らは年をとらないのに、僕だけが年をとっている。

この非対称に名前がついているかどうか、これも探してもらったのですが、ぴったり当てはまる一語は見つかりませんでした。近いものはあります。人生の出来事には「これくらいの年齢で起きるもの」という社会的な時計がある、という考え方です。それを借りれば、二つの時計がある、と言えなくもない。観客の時計は毎年進み、球場の時計はいつも同じ時刻を指している。

けれど、これはうまい言い換えであって、説明ではありません。名前がついていないものを、名前がついている何かで包み直しただけです。

もう一つ、古い問いを思い出しました。船の部品を朽ちるたびに取り替えていって、最後に全部が入れ替わったとき、それは同じ船なのか。二千年近く前からある問いです。選手が全員入れ替わり、監督まで代わっても、その学校は同じ名前で呼ばれ、応援歌も同じで、去年と同じ校旗が揚がっています。何が「同じ」を担保しているのか。

そこまで来て、ふと思いました。高校野球が年をとらないというのは、魂が年をとらないというのと、同じことなのだろうか。

これについても、地図だけは手に入りました。変わらない核などそもそも無い、と言う立場があります。自己とは移り変わる感覚の束にすぎず、それをまとめる不変の実体は、いくら内省しても見つからない、という考え方もあります。もっと現代の議論では、厳密に同一であることは実はさして重要ではなく、記憶や人格のつながりが保たれていればそれでいい、という整理もありました。どれも「変わらない核はない」の側を向いています。もちろん対極には、変わらない何かがあるとする、ずっと古い考え方があります。

どちらが正しいのかは、僕には分かりません。分からないまま置いておきます。

分かっているのは、来年の夏もあの場所は同じ絵をしていて、そこに立っている人は全員入れ替わっていて、そして僕は一つ歳をとっている、ということだけです。それを何と呼ぶのかは、まだ誰も決めていないようでした。


この文章を書くにあたって読んだもの: