続きは、どこでも始まる

頭の中に浮かぶメモと、AIの相棒が手を伸ばし合う線画イラスト

頭の中に浮かぶメモと、AIの相棒が手を伸ばし合う線画イラスト

シャワーを浴びているときに、昼間の考えごとの続きが勝手に始まることがあります。たとえば夕方の会議で「確認して戻します」としか言えなかった質問への、ちゃんとした答え。書きかけのメールの、最初の一行。シャンプーの泡を流しながら、頼んでもいないのに、頭が勝手に仕事を再開しているんです。

昔はこれを「切り替えが下手」だと思っていました。風呂では風呂のことだけ考えるべきだ、と。でも最近、見方が変わりました。きっかけは、道具のほうです。

たとえば、いま読んでいただいているこの文章。書き始めたのは会社帰りの電車の中で、スマホのメモ帳でした。家に着いてパソコンを開くと、さっきの続きがもう画面に出ている。翌朝、駅のホームでまたスマホを開くと、昨夜の続きがそこにある。僕はその昔、書きかけのファイルをUSBメモリに入れて持ち歩き、年に一度は失くしていた人間です。あの頃の自分に教えたら、たぶん信じません。

これ、ファイルが移動しているんじゃないんですよね。ファイルはずっと同じ場所にいて、僕のほうが、会社から、電車から、家から、同じ場所に「入り直して」いる。部屋はひとつで、扉が増えただけ。そう気づいたとき、妙に感動してしまいました。

だとすると、シャワーの湯気の向こうにも扉があることになります。湯船で会議の続きを考えてしまうあの現象は、切り替えが下手なんじゃなくて、僕が「見えない扉」からいつもの作業場に入ってしまっているだけ。そう思うと、ちょっと憎めなくなりました。

面白いのは、どの扉から入るかで、自分が少し変わることです。会社のパソコンの前の僕は、背筋が伸びていて、言葉づかいも整っています。電車でスマホを打つ僕は、隣の人に画面を見られないように少し傾けて、誤字だらけの文を打っている。シャワーの扉から入る僕にいたっては、裸です。それでも全員が、同じ書きかけの文章に、少しずつ手を入れていく。

「本当の自分はどれなんだろう」って、たまに考えたくなりますよね。職場の自分、家の自分、古い友人の前の自分。全部ちょっとずつ違う。僕はもう、選ばなくていいと思っています。どれも本物で、ただ入ってきた扉が違うだけ。大事なのは、どの自分も最後は同じ部屋に帰ってくることです。

だから僕は、湯船で仕事の続きを考えてしまう自分を、責めないことにしました。あれは切り替えの失敗ではなく、通勤時間ゼロの出勤なので。

人生はすばらしい、と僕は思っています。理由のひとつは、こういうところです。散らばったまま、それでもひとつの場所に帰れること。今日も僕は、いくつもの扉から、同じ部屋に帰ります。

ClaudeCodeがもたらす素人へのインパクト―格差拡大の構造強化か

先週、このサイトをまるごと作り直した。といっても、コードを書いたのは僕じゃない。名前も愛称も知らない一つのAIエージェントが、僕の代わりにHTMLとCSSを書き、WordPressのAPIを叩いて、ページをまるごと差し替えてくれた。僕がやったのは、「ミニマルでスタイリッシュにして」と伝えたことと、できあがった画面をスマホで確認して「ここの余白、もう少し広げて」と言い直したことくらいだ。

正直、怖くなった。

かつてインターネットが家庭に入ってきた頃、まだ誰もそれが何をもたらすのか分かっていなかった。「ホームページ」という言葉すら怪しく響いた時代に、いち早く手を動かした人たちだけが、次の10年の景色を先取りしていた。今、目の前で起きていることも、たぶん同じ種類の出来事だ。ただしAIエージェントの「believer」は、まだそう多くない。

僕はコードが書けない。だけど、書けなくても「作れる」時代になった。これは喜ばしいことのはずだ。学ぶコストの高い専門知識——プログラミング、デザイン、マーケティングの型——が、素人にも開かれていく。

だが、同時にこうも思う。この非対称性は、本当に縮まっているのだろうか。AIを使いこなして「素人でも作れる」ようになった人と、その存在すら知らずに旧来のやり方で消耗し続ける人の差は、むしろこれから広がっていくのではないか。雇われて働くことの意味も、静かに変質していくだろう。エージェントを何十体も同時に動かせる企業と、僕のように一人でつぶやきながら一つのエージェントと向き合う個人とでは、資本の使い方そのものが違う。同じ道具を「持っている」ことと、それを「使いこなせる」ことの間には、まだ大きな崖がある。

このサイトの刷新は、小さな出来事だ。だけど、僕はこの体験の中に、次の10年の縮図を見た気がしている。楽観と悲観、その両方が同時に正しい。そんな時代の入り口に、僕らは今、立っている。